1972年、埼玉県春日部市生まれ。左官になるきっかけは父だった。濱井さんの父は中学卒業と同時に島根から上京し、左官職人として池袋の大手左官会社「原田建塗(けんと)」に住み込みで働き始めた。
SAKAN RESTA WALL FEATURE
サカン・リスタ・ウォールという、壁から始めるリフォームを提唱しているのは、左官職人濱井忠。伝統的な左官の工法だけでなく、現代的な工法・技法、室内装飾など、幅広く手掛ける彼の人生を振り返ってみます。
ROOTS
1972年、埼玉県春日部市生まれ。左官になるきっかけは父だった。濱井さんの父は中学卒業と同時に島根から上京し、左官職人として池袋の大手左官会社「原田建塗(けんと)」に住み込みで働き始めた。
親父が原田にいた頃は100人以上職人がいたそうです。親方も何人もいて、班分けされてました。親父は島根から仲間を引っ張ってきて、一緒に働いていたと聞いています
省庁、銀行、学校──東京の巨大建築物を支えた原田建塗の仕事のかたわら、濱井さんの父は独立を決意する。1973年、春日部に移り住み、土壁や古民家の修復といった住宅中心の左官業を始めた。
サンシャイン60ができる2年前くらい。まだ池袋が開発される前に、独立したんです。それもすごい話だなと思いますよね
幼少期の濱井さんは、そんな父の背中をぼんやり眺めながら、現場に足を運び、道具に触れ、材料を運ぶ手伝いをしていたという。コテをいじって、ぼーっと座っている時間もまた、左官への第一歩だった。
ONE MILLIMETER
中学時代はやんちゃの真っ只中。「正直、あのままいったらまずかったかもしれない(笑)」と振り返る濱井さんだが、転機は姉の影響で入学した埼玉第一高校の体操部だった。
めちゃくちゃ怖い部活で、毎日朝練・昼練・夜練の三本立て。同期で残ったのは数人だけ。でも、あの経験がなかったら今の自分はいないと思います
筋力も精神力も問われるその環境で、濱井さんは一気に学業にも目覚め、クラスで1位を争うまでになる。
ARCHITECTURE
高校卒業後、進路に迷う中で最終的に、日本でトップクラスの建築専門学校である「中央工学校」(東京・王子)に進学を決意。80年の歴史を誇り、かつては田中角栄氏が校長を務めていたこともある由緒ある学校だ。
学校見学でそのスケールや課の多さに圧倒され、「お店やインテリアもやってみたい」という想いから、室内設計科に進んだ。戸建てからデパートの店舗まで、あらゆる空間のデザインを学べることに魅力を感じたからだ。「室内設計・インテリア・店舗デザイン…とにかく全部覚えたかったんです」
在籍したクラスは1クラス120人という大所帯。しかし、夏を越える頃には約90人に減るほど、ハードな環境だった。室内・店舗デザイン、構造、設計、建築基準法など、建築全般を2年間で徹底的に叩き込まれ、アルバイトの余裕すらなく、課題制作に追われる日々。
それでも、卒業制作では全450人中トップ10に入り、8位という成果を残せたことは、大きな自信につながった。表彰されたのは9人のみ。構造力学では最後まで苦戦し、H型鋼を日本で初めて開発したという伝説的な先生に教わる中で、なんとか合格を勝ち取った。
構造力学は大変でしたが、ギリギリでも、やり切れたことが自信になった。
卒業後はすぐに建築士の資格を取らず、まずは職人としての現場経験を重視することになる。
CONSTRUCTION SITE
卒業後の4月、店舗の管理会社に就職。当時はまだ百貨店の新築が盛んな時代で、横浜ランドマークタワーを含む5~6店舗を担当。学生時代から現場慣れしていたため、サラリーマン育ちの同僚たちが現場の職人さんたちに圧倒される中、自分は物怖じせず、現場でのやりとりをこなすことができた。
中学生時代にセメント作業を手伝った経験が、まさかこのタイミングで活きるとは思ってもいませんでした。「ここ直せる?」と言われれば「できますよ」と答える。材料の感触も、現場の流れも体に染みついていました
現場監督として、A工事(床・躯体など)の後の内装工程を担当。図面に沿って間仕切り壁や棚を作り、位置を正確に出すために「墨出し」や「水糸」を駆使した。最初の現場で覚えたことを、2軒目では自分が主体となって現場を仕切るまでに成長。
DIMENSION
90cmの開口に実際に扉が入るようにするための「逃げ寸法」――90.2cmで墨を出す、というような細かい寸法の世界で仕事をしていると、かつての体操部の顧問が「社会で1mm2mmの仕事をしてるのか」と感心してくれたのも、今となっては懐かしい思い出だ。
店舗づくりは1か月サイクル。1年で12軒以上を担当し、2年半で何千万という予算の店も任されるように。設計デザインは別の担当者が行い、材料の選定などは任された。次第に住宅やホテルなどへとフィールドも広がっていく。
職人の家に育ち、現場に馴染んでいた濱井さんにとって、職人とのやり取りや施工現場の空気は「知っている場所」だった。自然と現場監督としての信頼を得ていったが、心のどこかで「もっと手を動かしたい」という衝動が膨らんでいった。
CRAFTSMANSHIP
その翌年、ついに2級建築士を取得し、実務経験をもとに願書を提出し、「なぜもっと早く取らなかったのか?」と聞かれても、
職人は資格より技術。1人前になってからです
と答えた。
それから本格的に左官職人として独立。1級建築施工管理技士の資格も取り、地元・春日部の伝統左官の職人たちとともに、もう一度学び直し、最新の素材を使った技術も習得していく。現場では東京時代の設計の知識も活かされ、ビルから古民家まで幅広く対応できる数少ない職人として知られるようになった。
昔はセメントが主流になって、珪藻土や漆喰などの技術は忘れられそうになってた。でも、今また見直されてきてる。あの頃教えてくれた春日部の左官の親方たちに、感謝しかないですね
TRADITION AND MODERN
伝統工法を手がける職人として春日部の風土を知る職人として、濱井さんは今日も現場に立つ。寸分の狂いもなく壁を仕上げるその姿には、建築家としての論理と、手の感覚を信じる職人の本能、そのどちらもが息づいている。
EPILOGUE
「手で考えて、手で伝える」
それが濱井忠という職人の、変わらぬ美学である。